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高松家庭裁判所 平成9年(家)1031号 審判 1998年5月15日

主文

相手方乙山月子及び同乙山太郎は、各自、申立人に対し、金五〇〇万円を支払え。

相手方丙田花子に対する本件申立てを却下する。

理由

1  申立ての趣旨

相手方らは、各自、申立人に対し、財産分与(扶養的要素部分及び清算的要素部分)として、一〇〇〇万円を支払え。

2  本件申立ての概要

本件申立ては、申立人と乙山次郎(以下「次郎」という。)との間に内縁関係が成立していたことを前提とし、次郎が死亡したことにより内縁関係が消滅したときも離婚における財産分与規定が準用又は類推適用されるべきであると主張し、次郎の相続人である相手方らに対し、次郎から相続した財産分与義務の履行を請求するものであり、財産分与のうち、扶養的要素部分としての平均余命までの扶養料及び清算的要素部分を請求している。

3  財産分与に関する当裁判所の見解

内縁関係にある当事者の一方が死亡して内縁関係が消滅した場合、生存配偶者が離婚時における財産分与規定の準用又は類推適用により財産分与請求をすることができるか否かについて検討するのに、これを肯定すれば民法の体系を崩すことになるから認められないとする考え方がある。しかし、内縁関係を準婚関係として保護する立場に立ちながら、生別した場合には財産分与請求権を肯定し、終生にわたり内縁関係を続けた場合には否定することになると、不均衡が生じることは明らかである。民法の体系を崩すという理由で否定することは、形式的に過ぎると思われるばかりか、合理的・実質的な根拠も薄いものと考えられる。すなわち、そもそも内縁の当事者は、初めから相続権を持たないのであるから、現行制度を前提とする以上、死亡による内縁消滅の場合にも離婚における財産分与規定を準用又は類推適用して内縁消滅によって不利益を被る者を保護することは、実質的な公平を図ることになりこそすれ、民法の体系を崩すことになるとは考え難い(死亡による内縁消滅の場合における生存配偶者に財産分与請求権を肯定すれば民法の体系を崩すことになるとする見解は、これを肯定すると、法律上の夫婦の死亡消滅の場合にも、相続制度とは別に、財産分与のような夫婦の財産の清算を考えざるを得なくなると主張する。しかし、現行法は、法律上の夫婦の死亡消滅の場合は、相続制度で処理するものとし、相続制度以外の清算方法は現行法の予定していないものというべきであって、わざわざそういう類推解釈等をする必要性は全くなく、そのような解釈は採るべきではない。)というべきである。また、本件では、相手方らは、内縁関係が死亡により消滅した場合に生存配偶者に財産分与請求権があることを積極的には争わず、むしろ存在することを暗黙のうちに肯定した上で、内縁関係が存在しなかったから請求には応じられないとの態度を執ったものである。これらの点を総合して考えると、生存配偶者は財産分与規定の準用又は類推適用により財産分与請求権を有するものと解するのが相当である。

そして、被相続人が負担するべきであった財産分与義務を承継した相続人らは、その具体的内容が金銭債務として形成された場合は、その金額を法定相続分に応じ分割して負担するものと解するのが相当である。

4  内縁関係の成否

(一)  本件における内縁関係の成否について検討するのに、本件記録及び申立人に対する審問の結果を総合すれば、以下の事実が認められる。ただし、申立人が主張するように、仮に申立人と次郎との間に交際開始後間なしに内縁関係が成立したとしても、次郎の妻春子が死亡するまでは、いわゆる重婚的内縁関係に該当し、本件では、春子との婚姻関係が全く形骸化していたことを認めるに足りる資料はないから、準婚関係としての保護は受けられないと解されるので、この点に詳しくは触れない。

(1)  申立人(昭和四年七月二八日生)は、昭和二三年に甲野一郎と婚姻し、昭和三〇年六月までに二女一男をもうけ、夫は昭和四五年に死亡した。夫の死後、子らを夫の実母に預けて単身で、昭和四六年三月から高松市所在の大東ボウリング場付設のサウナで働いた。

昭和四七年ころからは、別のサウナの従業員として勤務し月収一五万円程度を取得し、勤務先は変わったものの、昭和五〇年ころからは月収一〇万円程度を得られるパート勤務を続け、平成五年以降は自らが賃借して居住する賃貸マンションの管理人として雇用され、月収九万円及びマンション一室の無償供与を得ている。

もっとも、申立人は、マンション所有会社との間で管理委託契約を締結している会社から管理人に雇用されているが、平成一〇年三月、マンション所有会社が破産したため、その管理人の地位は安定したものとはいえない。

(2)  次郎(大正九年四月二四日生)は、兵庫県内の病院で運転手として働き、昭和二二年に丁川春子と婚姻し、同年三月に長女である相手方乙山月子を、昭和二四年に長男である同乙山太郎をもうけた。相手方丙田花子は、戸籍上は次郎夫婦の次女として記載されているけれども、実際は、相手方月子と夫丙田三郎との間の子である。

(3)  次郎は、戦後、高松市に移りタクシー運転手として働き、昭和二九年一月、夏山タクシー有限会社を設立し、以後、死亡するまで代表取締役として同社の経営に当たった。

次郎は、大東ボウリング場付設サウナの客であったが、昭和四六年三月ころ、申立人が同サウナに勤務するようになって知り合い交際を始めた。

申立人は、知り合った当初から次郎が気管支炎を患い、その咳の音が申立人の亡夫がしていた咳の音に似ていたので、次郎の健康状態に関心を抱いたことが交際のきっかけとなり、病気を持ちながらも朗らかで野性的な人柄に魅力を感じたと言う。申立人は、次郎には妻子がいることを知っていた。

次郎は、申立人が高松市松福町に借りていたアパートに同年五月から出入りするようになり、家賃等の費用として月額五万円を負担して申立人との交際を続けた。同年八月ころ、申立人は、同町所在の西本アパートに転居し、次郎は生活費として月額一〇万円を負担するようになった。

昭和五五年四月、申立人は、現住居である扇町一三ビル(旧労住協第一三ビル)に転居し、次郎は生活費として月額一五万円を負担し始めた。

生活費として次郎から渡される金額は、その後も増え、平成六年には月額一八万円、次郎が死亡した当時は少なくとも月額二〇万円(相手方月子は、二五万円と陳述する。)となった。

(4)  次郎の妻春子は、昭和五六年ころ筋無力症にかかり、昭和五八年ころ以降、高松赤十字病院での入院治療を続け、昭和六二年八月同病院で死亡した。

(5)  次郎は、昭和六〇年一二月下旬から一か月余り肺炎により高松南病院に入院し、気管支炎により、昭和六一年三月一日からと同年一〇月一日からと、約一か月間ずつ真弓内科に入院した。そして、昭和六二年四月高松病院に入院したところ、結核にかかっていることが分かり、同年五月一三日高松市民病院の隔離病棟に転院し、同年八月二八日退院したものの、同年九月一日再入院し、これを含んで二回入院した後、昭和六三年一〇月四日結核は治癒したとして退院した。

次郎は、高松市民病院入院中、病気を治すには栄養を取ること以外に方法はないとの信念を持ち、自分で献立を考えるので、申立人は、ほとんどの日、次郎の指示に従って材料を買い入れ、下ごしらえをして病院に持参し、病院の反対を押し切って料理道具を持ち込んで次郎の夕食を調理した。

(6)  昭和六三年一一月二八日、次郎は、相手方月子及びその子らと同居するため高松町に自宅を新築した。

そのころ、次郎は少なくとも週のうち一、二日は申立人宅で寝泊まりしていたところ、次第に申立人宅で過ごす時間が長くなっていった(相手方月子も、平成七年ころからは、次郎が週のうち三、四日を申立人宅で過ごしたことを認めている。)。

(7)  このころの次郎の状態について、申立人は、次のように述べる。すなわち、昭和六三年一〇月四日の退院以降は平成三年二月五日に高松市民病院に入院するまで入院こそしなかったものの、肺気腫の症状は改善されておらず、就寝中に激しい咳を繰り返すため、申立人は、ほとんど眠ることができないので、体がもたないと考え、週末くらいは自宅で相手方月子の世話を受けてほしいと次郎に頼んだ。その結果、平成二、三年ころからは、次郎は、毎週土曜日及び日曜日には自宅に帰るようになり、この状態は、以後、入院時を除いて死亡するまで続いた、と。

また、平成二年二月ころ、申立人は次郎の態度を信用することができず、世話を拒否していたところ、次郎は、申立人宅を訪れ、申立人に対し、世話してほしいと懇願したため、次郎の看護や世話ができるのは自分しかいないと考え直し、再び療養に協力することになったとも述べる。

(8)  次郎は、平成三年二月五日に肺気腫により高松市民病院に入院し、これを含めて同年中にいずれも肺気腫により合計四回入退院を繰り返した(入院期間は、順に三一日、四八日、二九日、五一日)。平成六年からは入院している期間が長くなり、同年二月二五日から肺気腫のため高松市民病院に入院し、平成七年一月三一日までに合計五回入退院を繰り返し(入院期間は、順に三五日、二〇日、九一日、四八日、六七日)、同年三月一四日にも高松市民病院に入院し、同年四月七日退院し、以後、入退院を繰り返した後、平成八年九月に高松市民病院に入院したまま、平成九年一月一九日急死した。

相手方月子は、平成七年末ころから、朝食を作るため毎朝のように病院に行くようになり、次郎は、病院に来た同相手方を介して申立人に対し夕食の献立を連絡した。そして、申立人は、(5)に認定したように、ほとんど毎日のように次郎の夕食を調理した。

(9)  (8)の期間中である平成六年六月一日から平成七年二月二七日までの間を子細に検討すると、以下のとおりである。

すなわち、上記期間の日数は二七二日であるところ、次郎はそのうち約二〇二日間入院し、申立人は、入院期間のうち約一六一日は病院に行き、食事等の世話をした。上記期間中、次郎は約七〇日間病院外で過ごしたが、申立人宅でうち約四六日、自宅で相手方月子と共に約二四日生活した。なお、次郎は、入院中に合計約三日外泊したが、外泊先はいずれも申立人宅である。

(10)  (9)で認定した期間の前後における次郎の生活状況は、(9)の認定事実から、以下のとおり推認するのが相当である。

すなわち、申立人は、入院期間中はほとんど毎日のように病院に行き、次郎の求めに応じて夕食を調理した。次郎は、退院して通常の社会生活を送っている間は、その過半の期間を申立人宅で過ごした。

(11)  申立人は、平成二年か平成四年、上記認定の生活費以外に次郎から現金で三〇〇万円の贈与を受けた。

(12)  申立人は、次郎の通夜に外形上は親族の一員のような立場で参列し、葬儀の際には親族と一緒に焼香した。その時、相手方月子は、県外から参列した親族に対し、申立人の療養看護に関する貢献を説明した。

申立人の近隣の知人らは、次郎の死亡により、配偶者が死亡したものと考えて申立人に香典等を送った。

(13)  申立人は、甲第二六号証の日記中に、次郎の言動に不快感や怒りを感じ、迷いながらも次郎との関係を継続している旨、子である相手方月子らが入院中の次郎の世話をしないことに腹立たしさを感じながらも専ら申立人が関与している旨、次郎は申立人とほとんど口を利かない状態を続けながらも、当然のように申立人宅に寝泊まりし、申立人に対して色々な指図をしている旨、次郎の容態が極めて悪化した後に回復した時などは、喜んで安堵しながら涙が出た旨を記載している。また、次女が大阪で入院する際には、見舞いに行ってやりたいけれども、次郎の世話をしなければならないので行けず、一〇日余り心配し続けたとの記載もある。

(14)  申立人は、自分の老後の保障がないことに不安を感じ、次郎に対して財産の分与もしくは婚姻届出に応じるように要求していたところ、次郎は、入籍には応ぜず、家を一軒買い与えると繰り返し述べながら、いざ売買が成立しそうになると、しばらく考えたいと言って契約を成立させなかった。

このようなことから、相手方月子は、申立人に対し、平成二年二月ころ、「家の一軒くらい買ってもらって当たり前」と言った。また、同相手方は、本件の調停係属中の平成九年六月ころ、電話で申立人に対し、二〇〇〇万円から三〇〇〇万円を支払うことで解決したいと考えていた旨の発言をした。

(15)  申立人の両親は、既に昭和五〇年代に次郎との交際や生活関係を承認しており、申立人の子らも、申立人宅を訪問した際に、次郎と食事を一緒にすることがあった。

(二)  以上の認定事実に基づいて検討する。

相手方らは、申立人と次郎との間に内縁関係が成立していたとの主張を争い、本件全資料を総合しても、普通にいう同棲の事実があったことを認めることはできない。しかし、内縁関係の成立要件としては、(1)当事者間の結婚の合意、及び(2)これに基づく夫婦共同生活関係が存在すれば足りるものと解するのが相当である。

申立人が次郎に対して婚姻の届出を求めた事実等から、申立人には次郎と結婚する意思があったことを十分に窺うことができるところ、申立人が次郎との交際を開始した動機、その後における次郎の療養生活に対する献身的な看護・世話の実態、交際が非常に長期間に及び、春子死亡後だけでも一〇年間近くになること、完全に同棲していたとはいえないにせよ、次郎は申立人宅を自宅のように考え、申立人のことはほとんど配慮せずに全く自由気儘に振る舞い、相当頻繁に申立人宅で寝泊まりしており、申立人宅が生活の本拠地であったと解することもできること、次郎は申立人に依存し切っており、申立人もこれにこたえるなど、両者の精神的な結び付きは非常に親密であったことなどの事実関係に照らすと、申立人のいう結婚意思は、真摯なものであったと考えられる。のみならず、上記認定の事実によれば、申立人と次郎との生活関係は、夫婦共同生活関係の一種であったと解することができる。したがって、上記認定の事実を総合すると、申立人は、次郎と結婚する意思のもとに、社会通念上夫婦と見られる共同生活を送っていたものと認められる。

この結婚の意思について、次郎にその意思がなかったことを明確に認めるべき資料はない(婚姻の届出を拒んだことは、結婚の意思がなかったことの根拠にはならない。)ばかりか、交際が相当長期間にわたっている点及び次郎の療養生活における申立人の貢献は次郎の要求によるものである点などに照らすと、次郎の真意が申立人の意思と相反するというのは尋常ではなく、申立人の意思に添うようなものであったと考えるのが自然である(申立人の貢献内容は、配偶者春子や子らのはるかに及ばないものであった点に照らすと、次郎が生活費を負担していたにせよ、単なる家政婦とか愛人関係とかをもって評価するのは相当ではなく、そのような関係をはるかに超えるものと考えられる。)。相手方らの主張するように、次郎が申立人を単なる付添婦として認識していたのなら、色々ないさかいがあったにもかかわらず、次郎が申立人に固執する必要は全くないのであって、自分の意思どおりに動いてくれるような、申立人に代わる別の付添婦を探せば事足りたというべきである。にもかかわらず、次郎は、自ら積極的に申立人に対して身の回りの世話をするよう懇願した様子さえ窺われるのであるから、次郎と申立人との関係は単なる雇用関係などにとどまらず、それを超えた愛情に基づく親密な個人的な関係、換言すれば、社会観念上夫婦と認められる生活関係を設定するという結婚の意思に基づく関係であったと推認するのが相当である。

以上のとおりであって、遅くとも、春子が死亡した昭和六二年八月の時点において、申立人と次郎との間には結婚の意思が合致し、これに基づく夫婦共同生活関係も形成されたものということができる。

このことは、申立人の近隣の知人は、申立人と次郎との関係を少なくとも内縁関係と認め、次郎が死亡した際に香典等を提供した事実などに照らしても肯定されるところである。

5  財産分与の金額

一件記録によれば、次郎の遺産についての相続税申告書では、遺産総額は一億八五六一万七九七三円であり、うち一億七五五七万八〇〇七円相当の遺産を相手方月子が、残りの一〇〇三万九九六六円相当の遺産を同太郎がそれぞれ相続したこと、遺産のうちの主たるものは、有限会社夏山タクシーに対する出資持分であり、金額にして一億三二四九万九九二〇円に上り、すべて相手方月子が取得したことになっていることが認められる。

この事実の外に、4の(一)で認定した申立人と次郎との共同生活の内容及び期間、申立人の年齢、職業及び状況、次郎から受けた生活費及び贈与額、さらに平成八年四月時点の高松市における世帯人員数別標準生計費の一人世帯の金額が一か月九万四三〇八円であり、これを前提にし、上記認定の各収入を勘案して申立人の生計費の不足額を試算すると一年当たり約一〇〇万円になることなどの諸般の事情を総合して考えると、次郎の死亡による申立人との内縁関係消滅に伴う財産分与としては金銭を支払わせる方法を採用し、その扶養的要素部分として一〇〇〇万円を支払わせることとするのが相当であると考える。

本件では、いわゆる清算的要素部分の請求もなされており、その主張の要点は、申立人が次郎の療養看護に貢献したことによって次郎の財産が維持されたというものであるところ、この主張でいう維持された財産とは、基本的には、申立人が療養看護に貢献したことにより出捐することを免れた付添看護料に相当する金額であると解される。そうすると、上記認定のとおり、申立人は次郎から生活費の援助の外に三〇〇万円の贈与も受けているのであるから、これらの金銭の総額は少なくとも当該付添看護料に相応するものと考えられ、それ以上に次郎の財産が減少するのを防止したことを認めるべき特別の事情もないので、清算的要素部分の請求は理由がないというほかない。

したがって、次郎の相続人が一〇〇〇万円を法定相続分に応じて分割して負担することになるところ、相手方花子が次郎の相続人ではないことは上記認定のとおりであるので、結局、相手方月子及び同太郎が二分の一ずつ負担することになる。そして、本件申立ては、次郎の財産分与義務を承継した相続人に対する申立てであるから、次郎の相続人ではない相手方花子に対する申立ては、不適法として却下するべきである。

よって、参与員大字和の意見を聴いた上、主文のとおり審判する。

(編注)原原審判は横書きであるが、編集の都合上縦書きに改め、文中の算用数字は漢数字にした。

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